レビューはもっときちんとしたものなのだそうで、
私のは覚書というみたいです(すみません)
でも、読みっぱなしの本がたまっていって、
記憶から薄れてゆくのって、
忘れるって、悲しいですよね。
忘れていいものもたくさんあるだろうけれど。
(既出:2010-10-25 )
《百瀬、こっちをむいて。》
〜人間レベル2の僕の恋物語〜
中田永一著/祥伝社文庫 571円+税
映画監督・岩井俊二さんが小説帯にこう書かれています、
《凄い! このありふれた世界から
いくらでも新鮮な物語を掘り出すね》
私もそう思いました。
個々人の日々のうつろいが、
かけがえのない物語でできているのだと、
この小説集(4つの短編)を読んで思いました。
それを切り取って浮かび上がらせた、
つまりは小説家の素晴らしい才能に舌を巻いたのですが。
小説のなりたちというものに、無限の可能性があることを
今一度教えてくれたのは伊藤計劃氏ですが、
この中田永一という作家は、
ありふれているように見える名もない少年少女が
繊細で傷つきやすくそっと息づいている日常を、
大切にこちらに届けてくれている気がします。
言葉をしらない私は《せつない》と言ってしまいそうになるけれど、
その4文字では言い表せない、とても味わい、少年少女の《想い》が
つまっています。
《百瀬、こっちをむいて。》
こどもの頃、宮崎先輩にいのちをたすけてもらった相原は、
聡明で誰もがふりかえるような美しい先輩にとんでもない相談をもちかけられます。
それは相談ではなく、命令というようなもの(相原にとって)なのですが、
神林先輩という、絶世の美少女を彼女に持ちながら、百瀬という少女と隠れて付き合いたいため、
百瀬と相原が付き合っているというカモフラージュをしてほしいというものでした。
相原にとってこころからの憧憬の存在である宮崎先輩の頼みごとは絶対なのです。
百瀬は純真無垢である神林先輩とはまったくちがったタイプ、いわばツンデレ(死語?)な
少女でした。学校では相原の彼女を120%のノリで演じるのだけれど、学校を離れると
疎んじるという・・。
でも自分のことを人間レベル2(最低の人間だと自分のことをわかっている時点でレベル1は
かろうじて免れているかな)と思っている相原にとっては、百瀬にそういう目に合わされても
当然だと思うのでした。
でも、かりそめの恋を演じているうちに相原は苦しくなっていきます・・。
この小説、高校生の時制で物語られていくのではなく、大学を卒業して、帰郷したとき、
神林先輩と再会するところからはじまるのです。
そのとき神林先輩はおなかが大きいのですが、物語の最後になって、そのことがとても
余韻を残すというか・・。
それぞれの登場人物の悲しみや苦しみが、こどもとは言えない辛さを含んでもいるんだと、
教えられた気がしました。
この相原は百瀬とかりそめの付き合いを経て、何がどう変わるというサプライズ的要素が
ないんですが、すごく共感できるんですよ。
どの教室にもいた、「え、いたんだ?」的な、目立たない子。
そういう子にもそういう友達がいて、この小説はそういう存在にスポットライトをあてているんですね。
なので、ほかの小説とはちがった、すこし悲しい親近感?があるように思います。
神林も宮崎も大人の打算があって、もちろん宮崎は卑怯なんですが、
最後には許してあげられるというか・・。
結局、ほんとのところ、誰一人愛する人のこころをきちんと捕まえられなかったんじゃないの?と
思ったりしてしまうのですが、それを高校生たちが選択するところは、痛々しかったです。
青春小説なんでしょ?と思ってスルーされるかたは、
素晴らしい小説と出逢えなくてもったいないなあと思います。
岩井俊二さんの冒頭に引用した言葉を信じられてぜひ、ご一読を。
そのほかの小説、いずれ劣らぬ名作ばかりなのですが、
覆面作家をあつかった小説「きゃべつ畑に彼の声」を書いていらっしゃる
中田永一さんとおっしゃるご本人もまた覆面作家でいらっしゃるということに
とてもユーモアを感じました。
思えば、「百瀬、こっちをむいて。」のなかで語られたことが、
次の小説の1文にはいってきたりして、にたりと読者サービスしてくださったり。
いまや青春小説は恥ずかしくて書けないなどと思っていらっしゃる大御所小説家が著した
作品なのかなあと思ったりもしました。
ここに出てくる高校教師がめがね男子で思いっきりストライクなんですよ〜、お奨め^^。
メモ程度で乱雑に書いてしまいましたが、ぜひ読んでくださるかたがあればなあと思います。
これからやっと「阪急電車」を読み始めます〜。